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【裏あおいみゆ】「マヌエル・デルガド・ビジェガス」この男、スペイン最悪 エル・アロピエロ

目次

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年表

年月日出来事
1943年1月25日セビリア(セビージャ)にて誕生。母は出産時に死亡
1943〜1961年頃マタローの祖母のもとで育つ。父からの虐待、学校に通うも読み書きを習得できず
1961年18歳でスペイン外人部隊(ラ・レヒオン)に入隊。「レジオナリオの一撃」を習得
除隊後〜1964年スペイン各地を放浪。売血や売春で生計を立てる
1964年1月21日最初の確定殺人――ガラフ海岸でアドルフォ・フォルチ(49歳)を殺害
1967年6月20日イビサ島でフランス人女性マルグリット・ブドリ(21歳)を殺害・死姦
1968年7月20日マドリード近郊チンチョンで農夫ベナンシオ・エルナンデス(71歳)を殺害
1969年4月5日バルセロナで実業家ラモン・エストラダを殺害
1969年11月23日マタローで老女アナスタシア・ボレジャ(68歳)を殺害。死後4日間にわたり死姦
1970年12月3日エル・プエルト・デ・サンタマリアで友人フランシスコ・マリン(28歳)を殺害
1971年1月18日恋人アントニア・ロドリゲス(38歳)を絞殺。これが最後の確定殺人
1971年1月(逮捕後)アントニアの失踪で警察に事情聴取。当初否認
1971年2月21日アントニアの遺体発見後、殺人を自白。その後48件の殺人を順次自供
1971〜1973年捜査官とともにスペイン各地の犯行現場を巡回。飛行機で移動した初の連続殺人犯
1971〜1977年弁護人なしのまま6年半にわたり拘留(スペイン司法史上の汚点)
1978年全国管区裁判所が「精神異常」と認定し、刑事責任能力なしと判断。カラバンチェル刑務所精神科病棟に無期限収容を命令
1996年頃サンタ・コロマ・デ・グラマネットの精神科施設に移送
1998年2月2日バダロナのカン・ルティ病院にて肺炎(慢性閉塞性肺疾患の合併症)により死亡。55歳

第1章:母を奪われた誕生――セビリアの暗い始まり

マヌエル・デルガド・ビジェガスは1943年1月25日、スペイン南部アンダルシア地方のセビリア(セビージャ)で生まれた。しかしその誕生は、同時に母の死を意味していた。24歳の母は難産の末に命を落とし、マヌエルは生まれた瞬間から母親のいない人生を歩むことになった。

父ホセ・デルガド・マルティンは「アロペ」(果実を煮詰めたシロップ状の菓子)を売り歩く行商人だった。この職業から父は「エル・アロピエロ」(アロペ売り)と呼ばれ、その通称は後に息子のマヌエルにも受け継がれた――ただし、スペイン犯罪史上最悪の意味とともに。

父は息子の養育をまともに行わず、日常的に暴力をふるった。マヌエルはカタルーニャ地方マタローに住む母方の祖母のもとに預けられ、姉のホアキナとともにラ・シレラ地区で育った。学校に通ったものの読み書きを習得することはできなかった。知的能力の低さと、教育に無関心な家庭環境の両方が原因だった。

幼少期から思春期にかけて、マヌエルは深刻な心理的問題を抱えていた。後の精神鑑定では「強烈な劣等感に支配されており、知的能力の低さを指摘されると激しい怒りを爆発させる」と分析されている。また思春期の早い段階から男女を問わず売春行為に及び、バイセクシュアルであった。


第2章:外人部隊――殺人技術の習得

1961年、18歳になったマヌエルは家庭から逃れるようにスペイン外人部隊(ラ・レヒオン・エスパニョーラ)に志願入隊した。

外人部隊での訓練は、マヌエルの人生を決定的に変えた。彼はここで白兵戦技術を叩き込まれ、なかでも「ゴルペ・デル・レジオナリオ」(レジオナリオの一撃)、または「ゴルペ・モルタル」(致死の一撃)と呼ばれる技術を完璧に習得した。これは手刀の外縁で相手の喉仏(喉頭)を一撃する格闘技術で、正確に決まれば気管を圧壊させて即座に行動不能にし、死に至らしめることができる。この軍仕込みの殺人技術が、後の連続殺人における主要な殺害手段となった。

除隊後のマヌエルは帰郷を拒否し、スペインの地中海沿岸を中心に放浪生活を始めた。薬物依存に陥り、私立病院への売血や売春で日銭を稼いだ。浮浪者法や社会危険法で何度も逮捕されたが、刑務所に収監されることはなく、精神科施設に一時的に送られては放免されるということを繰り返した。フランコ独裁政権下のスペインでは、マヌエルのような社会の底辺にいる人間は司法からも福祉からも見放されていた。


第3章:最初の殺人――1964年、ガラフ海岸

第1の被害者:アドルフォ・フォルチ・ムンタネル(49歳)――1964年1月21日

マヌエルの最初の確定殺人は1964年1月21日、バルセロナ南部のガラフ海岸で起きた。被害者はコック(料理人)のアドルフォ・フォルチ・ムンタネル、49歳だった。

フォルチは海岸で眠っていた。マヌエルは眠っているフォルチの頭部を石で殴打して殺害し、所持品を奪った。殺害動機は強盗だった。この事件でマヌエルは21歳。ここから7年間にわたる殺戮の幕が開いた。


第4章:殺戮の拡大――1967〜1969年

第2の被害者:マルグリット・エレーヌ・テレーズ・ブドリ(21歳)――1967年6月20日

1967年6月20日、イビサ島。21歳のフランス人女性マルグリット・ブドリがマヌエルの手にかかった。リヨン出身の学生だったマルグリットは、イビサ島の農家に滞在していた。

マヌエルはマルグリットを枕で窒息させ、さらにスティレット(細身の短剣)で背中を刺した。殺害後、マヌエルはマルグリットの遺体に対して性行為を行った(死姦)。首からメダルを奪い取って逃走した。

この事件では、マルグリットのアメリカ人の友人ジュールズ・モートンが冤罪で逮捕され、1年以上にわたって投獄された。無実の人間が、デルガドの犯行の身代わりにされたのである。

第3の被害者:ベナンシオ・エルナンデス・カラスコ(71歳)――1968年7月20日

1968年7月20日、マドリード近郊のチンチョン。71歳の農夫ベナンシオ・エルナンデスがタフニャ川の近くで殺害された。

マヌエルは食べ物を恵んでもらおうとベナンシオに近づいたが、老農夫は「若いのだから自分で働け」と拒絶した。この一言がマヌエルの怒りに火をつけた。マヌエルは「レジオナリオの一撃」でベナンシオの喉を打ち、タフニャ川に投げ込んで溺死させた。

当初、この死亡は事故による溺死として処理された。マヌエルが自供するまで、殺人事件とは認識されていなかった。

第4の被害者:ラモン・エストラダ・サルドリッチ――1969年4月5日

1969年4月5日、バルセロナ。裕福な家具商ラモン・エストラダが自宅で殺害された。エストラダは同性愛者であり、マヌエルに300ペセタで性的サービスを依頼していた。

行為後、報酬の支払いをめぐって口論となった。マヌエルはエストラダの首に「レジオナリオの一撃」を加え、さらに椅子の脚で頭部を殴打し、最後に絞殺した。

第5の被害者:アナスタシア・ボレジャ・モレノ(68歳)――1969年11月23日

1969年11月23日、マタロー。この事件はデルガドの犯行の中でも最も衝撃的なものとして語り継がれている。

被害者は68歳の老女アナスタシア・ボレジャだった。マヌエルはアナスタシアに性的関係を求めたが拒絶された。激怒したマヌエルはレンガで彼女の頭部を殴打し、橋の上から突き落とし、さらに絞殺して殺害した。

ここからがこの事件の異常性の核心である。マヌエルはアナスタシアの遺体をリエラ・シレナのトンネルに運び込み、殺害後4日間にわたって遺体と性行為を繰り返した。68歳の老女の腐敗が進む遺体に対して、4日間連続で通い続けたのである。この事件はスペイン全土に衝撃を与え、デルガドの「死姦への異常な執着」を決定づけるものとなった。


第5章:最後の殺人と逮捕――1970〜1971年

第6の被害者:フランシスコ・マリン・ラミレス(28歳)――1970年12月3日

1970年12月3日、カディス県エル・プエルト・デ・サンタマリア。マヌエルの友人であったコルドバ出身の24歳(一部資料では28歳)のフランシスコ・マリン・ラミレスが殺害された。フランシスコはマヌエルの恋人アントニア・ロドリゲスと同じ通りに住んでいた。

マヌエルはフランシスコの頭部を2回殴打して殺害し、遺体をグアダレテ川に投げ込んだ。友人すら殺害の対象とする――デルガドの殺人に「選択基準」は存在しなかった。

第7の被害者(最後の確定殺人):アントニア・ロドリゲス・レリンケ(38歳)――1971年1月18日

1971年1月18日、エル・プエルト・デ・サンタマリア。マヌエルの最後の確定殺人は、自身の恋人アントニア・ロドリゲス・レリンケ(38歳)の殺害だった。アントニアには知的障害があり、マヌエルは彼女を父親に「恋人」として紹介していた。

マヌエルは性行為中にアントニアのレギンスで首を絞め、窒息死させた。殺害後、マヌエルは遺体を野原に遺棄したが、その後3晩連続で遺体のもとに通い、死姦を行った。

アントニアの失踪をきっかけに警察がマヌエルに事情聴取を行った。当初マヌエルは「映画を見に行っていた」とアリバイを主張したが、映画の内容を一切説明できなかった。

1971年2月21日、アントニアの遺体が発見されると、マヌエルはついに殺害を自白した。そしてそこから堰を切ったように、48件の殺人を次々と自供し始めた。


第6章:48件の自供――スペインを震撼させた告白

犯行現場の巡回

マヌエルの自供を受け、捜査判事コンラド・ガジャルド・ロスと捜査官たちは、1971年から約2年間にわたってマヌエルとともにスペイン各地の犯行現場を巡回した。マヌエルは飛行機でも移動しており、犯行現場を飛行機で訪れた史上初の連続殺人犯とされている。

現場では、マヌエルは自ら犯行を再現して見せた。捜査官サルバドール・オルテガがマヌエルの信頼を得ることに成功し、マヌエルは写真撮影の際に笑顔を見せ、捜査官と抱き合うほどだった。取り調べ中は終始冷静で、犯行の詳細を淡々と語った。

自供の内容

マヌエルが自供した48件の殺人は、スペイン国内にとどまらず、フランスとイタリアでも犯行があったとされる。殺害方法は多岐にわたった。

レジオナリオの一撃(喉への手刀)、石やレンガでの殴打、絞殺、刺殺、溺死させるために川に投げ込む、崖から突き落とすなど、状況に応じたあらゆる方法が用いられた。しかし一貫していたのは、女性被害者に対する死姦である。マヌエルは殺害した女性のほぼ全員に対して死後に性行為を行った。

医学検査により、マヌエルには「無射精症」(アナスペルミア)の症状があることが判明している。これにより勃起を長時間維持でき、長時間の性行為が可能だった。この身体的特徴が、死姦への執着を助長したと精神科医は分析している。

確定した犯行は7件のみ

48件の自供のうち、警察が実際に捜査できたのはスペイン国内の22件だけだった。フランスやイタリアでの犯行は、当時の国際捜査協力の限界もあり検証が行えなかった。最終的に犯行が確定したのは7件のみである。しかし捜査関係者は「自供のほぼすべてが真実である」との見解を示している。


第7章:確定被害者一覧

No.氏名年齢殺害日場所殺害方法
1アドルフォ・フォルチ・ムンタネル491964年1月21日ガラフ海岸(バルセロナ)就寝中に石で頭部を殴打。金品を強奪
2マルグリット・エレーヌ・テレーズ・ブドリ211967年6月20日イビサ島枕で窒息させ、スティレット(短剣)で背中を刺す。殺害後に死姦。首のメダルを強奪
3ベナンシオ・エルナンデス・カラスコ711968年7月20日チンチョン(マドリード近郊)レジオナリオの一撃(喉への手刀)の後、タフニャ川に投げ込み溺死。当初は事故死として処理
4ラモン・エストラダ・サルドリッチ不明1969年4月5日バルセロナ首にレジオナリオの一撃。椅子の脚で頭部を殴打。さらに絞殺
5アナスタシア・ボレジャ・モレノ681969年11月23日マタローレンガで頭部を殴打し、橋から突き落とし、絞殺。殺害後4日間にわたり遺体と性行為(死姦)
6フランシスコ・マリン・ラミレス281970年12月3日エル・プエルト・デ・サンタマリア頭部を2回殴打。遺体をグアダレテ川に投棄
7アントニア・ロドリゲス・レリンケ381971年1月18日エル・プエルト・デ・サンタマリア性行為中にレギンスで首を絞めて窒息死。殺害後3晩連続で遺体のもとに通い死姦

第8章:その他の自供・未確定事件

確定した7件以外にも、マヌエルは以下のような殺人を自供している。

ナティビダ・ロメロ・ロドリゲス(1969年)。マドリードのバラハス近くの粘土壺の中で遺体が発見された売春婦。片手で絞殺され、強姦された状態だった。この事件は現在も未解決のままである。

サン・フェリウ・デ・ギショルスでの外国人女性の刺殺。アリカンテでの女性の刺殺。バルセロナでの同性愛者の男性をワイヤーで絞殺。ガラフでの同性愛者の依頼人を「こんな場所で死ねたら本望だ」という言葉を聞いた直後に崖から突き落とした事件。

これらの事件はいずれも自供のみで物的証拠による確定には至っていないが、捜査当局はその多くを事実と認めている。


第9章:裁判なき終身――スペイン司法の闇

6年半の「法の空白」

1971年1月の逮捕から1977年まで、実に6年半にわたってマヌエルには弁護人がつかなかった。これはスペイン近代司法史上の重大な汚点とされている。フランコ独裁政権末期のスペインでは、精神障害を抱え読み書きもできない被疑者の権利は事実上無視されていた。

精神鑑定と「責任能力なし」の判断

マヌエルに対しては複数回の精神鑑定が実施された。鑑定結果は「重度の精神障害」であり、完全な刑事責任能力がないと判断された。

当初、マヌエルには「XYY症候群」(性染色体異常で男性にY染色体が1本多い状態)があると報告され、これが攻撃性の原因ではないかと注目された。しかし後にXYY症候群と暴力行為の因果関係は科学的に否定されている。

精神科医の診断では、マヌエルは「深刻な劣等感に支配され、制御不能な性的衝動と、知的能力を馬鹿にされたという認識に対する激しい怒りの発作に突き動かされていた」とされている。また「現実認識が著しく歪んでおり」、殺人行為の重大性を真に理解していなかった可能性が指摘された。

無期限の精神科収容

1978年、全国管区裁判所(アウディエンシア・ナシオナル)はマヌエルを「精神異常者」と認定し、正式な裁判を経ることなく、カラバンチェル刑務所の精神科病棟への無期限収容を命じた。

つまりマヌエル・デルガド・ビジェガスは、48件の殺人を自供しながら、一度も裁判にかけられることなく、一度も有罪判決を受けることがなかった。スペイン史上最多の殺人を自供した男は、法的には「犯罪者」として裁かれないまま、精神科施設の中で余生を送ることになったのである。


第10章:「精神科のロビンソン」――27年間の収容生活と死

施設内での姿

精神科施設内でのマヌエルは、収容者たちから「エル・ロビンソン・デ・ロス・シキアトリコス」(精神科のロビンソン・クルーソー)と呼ばれていた。髪を切ることを拒否して伸び放題にし、身なりを一切気にせず、他の収容者とほとんど交流を持たなかった。

唯一知られている刑務所内でのインタビューは、犯罪雑誌『エル・カソ』の編集長フアン・イグナシオ・ブランコとのものだった。そのインタビュー中、マヌエルは会話の最中に公然と自慰行為を行い、「まるで最も自然なことであるかのように」振る舞ったと報告されている。

施設の移送と死

1996年頃、マヌエルはカラバンチェル刑務所の精神科病棟からバルセロナ近郊のサンタ・コロマ・デ・グラマネットの精神科施設に移送された。遠縁の親族が近くに住んでいたためとされる。

1998年2月2日、マヌエル・デルガド・ビジェガスはバダロナのカン・ルティ病院にて死亡した。55歳だった。死因は慢性閉塞性肺疾患(長年の喫煙による肺疾患)に起因する肺炎であった。

逮捕から27年間、精神科施設と病院を転々とした末の死だった。裁判を受けることもなく、刑罰を科されることもなく、48件の殺人の真相の多くは彼とともに墓の中に消えた。


第11章:エル・アロピエロが残した問い

冤罪の犠牲者

チカチーロ事件と同様に、デルガドの犯行では冤罪が発生している。1967年のイビサ島でのマルグリット・ブドリ殺害事件では、アメリカ人のジュールズ・モートンが無実の罪で1年以上投獄された。デルガドの自供がなければ、モートンの冤罪が晴らされることはなかったかもしれない。

フランコ体制下の司法の限界

デルガドの事件は、フランコ独裁政権下のスペイン司法の構造的欠陥を浮き彫りにした。6年半にわたる弁護人不在の拘留、読み書きのできない被疑者の権利の無視、そして48件の殺人を自供した人物に対して一度も裁判が開かれなかったという事実は、当時のスペインの人権状況を象徴するものである。

「なぜ止められなかったのか」

マヌエルは1964年から1971年まで7年間にわたって殺人を繰り返した。その間、浮浪者法や社会危険法で何度も警察に拘束されている。しかし毎回、精神科施設に一時的に送られては短期間で放免されていた。各地を転々とする放浪者の犯行を結びつける捜査体制は存在せず、殺人事件として認知すらされていなかったケースも多い(ベナンシオ・エルナンデスの溺死が「事故死」として処理されたように)。フランコ体制下のスペインでは連続殺人犯という概念自体が社会的に想定されておらず、デルガドは文字通り「見えない殺人者」として7年間野放しにされていた。

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