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【裏あおいみゆ】「アンドレイ・チカチーロ」ソ連史上最悪の連続殺人鬼 56人殺害自供 【世界最悪のサイコパス】

2026年04月13日 | 約31分で読めます | japan_miyu_

年表

年月日出来事
1936年10月16日ウクライナ・スームィ州ヤブロチノエ村に誕生
1941〜1944年ナチスドイツによる占領下で極貧の幼少期を過ごす
1954年高校を優秀な成績で卒業
1955年通信技術者の職業訓練を修了
1957〜1960年ソ連軍に従軍(中央アジア国境警備、東ベルリンでのKGB通信業務)
1963年フェオドシヤ・オドナチェヴァと結婚
1965年長女リュドミラ誕生
1969年長男ユーリ誕生
1970年ロストフ大学文献学部を卒業(ロシア語・文学専攻)
1971〜1981年複数の学校で教師・校長を務める(生徒への性的問題行為で複数回辞職)
1978年12月22日最初の殺人――エレナ・ザコトノワ(9歳)を殺害
1981年9月3日約3年の空白期間を経て2人目の犠牲者ラリサ・トカチェンコ(17歳)を殺害
1982年この年だけで7人を殺害。犯行が加速
1983年7人を殺害
1984年犯行のピーク。1年間で15人を殺害
1984年9月ロストフ駅で不審行動により一度拘束されるも、証拠不十分で釈放
1985〜1986年ソ連当局が大規模捜査「オペレーション・レソポロサ(森林帯作戦)」を発動
1985年2人を殺害
1986年2人を殺害
1987年3人を殺害(ロストフ州外での犯行)
1988年3人を殺害
1989年3人を殺害
1990年8人を殺害。11月6日、最後の犠牲者スヴェトラーナ・コロスティク(22歳)を殺害
1990年11月20日ノヴォチェルカッスクで逮捕
1990年11月30日精神科医ブハノフスキーとの面談後、56件の殺人を自供
1992年4月14日ロストフ・ナ・ドヌーにて裁判開始
1992年10月15日52件の殺人で有罪判決、死刑(銃殺刑)が宣告される
1994年2月14日ノヴォチェルカッスクの刑務所にて銃殺刑執行。無名の墓に埋葬

第1章:飢餓と恐怖に支配された幼少期

ホロドモールの影

アンドレイ・ロマノヴィチ・チカチーロは1936年10月16日、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国スームィ州のヤブロチノエ村で生まれた。父ロマンと母アンナはともにコルホーズ(集団農場)の労働者で、家族は極度の貧困にあえいでいた。

チカチーロの幼少期に最も暗い影を落としたのは、1932〜1933年のホロドモール(ウクライナ大飢饉)である。推定390万〜700万人が餓死したこの人災の最中、母アンナは幼いアンドレイに「お前の兄ステパンは飢えた人々にさらわれて食べられた」と繰り返し語った。兄ステパンの実在や食人の事実は確認されていないが、この話がチカチーロの精神に深い傷を刻んだことは後の精神鑑定でも指摘されている。

ナチス占領下の少年時代

1941年、アンドレイが5歳のとき独ソ戦が始まり、父ロマンは前線に送られた。スームィ州はナチスドイツに占領され、一家は地獄のような日々を送った。1944年にソ連軍が奪還するまでの3年間、チカチーロ一家は飢えと恐怖の中で生き延びた。

終戦後も貧困は続いた。1944年9月に小学校に入学したアンドレイは、ボロ切れのような服を着て通学し、授業中に空腹のあまり気を失うことも珍しくなかった。さらに12歳まで夜尿症が治らず、その度に母親から激しく叱責されたことが、チカチーロの自己嫌悪と内向的な性格を決定づけた。幼少期から頭痛やめまいに悩まされ、強い近視も抱えていた。

父ロマンは前線で負傷後に捕虜となり、戦後ソ連に帰還したが、「祖国の裏切り者」として白眼視された。父が味わった屈辱もまた、少年チカチーロに深い影響を与えた。


第2章:優等生の仮面――学歴と教職キャリア

成績優秀な青年

チカチーロは学業において極めて優秀だった。1954年に高校を優秀な成績で卒業し、翌1955年に通信技術者の職業訓練を修了。モスクワ大学法学部への進学を志したが不合格となり、この挫折は生涯にわたって彼の劣等感を刺激し続けた。

1957年からソ連軍に入隊し、中央アジアでの国境警備や東ベルリンでのKGB通信業務に従事。1960年に除隊した後、ロストフ大学文献学部(ロシア語・文学専攻)に入学し、1970年に卒業した。

教師としての「異常」

1971年、チカチーロはノヴォシャフチンスクの学校に教師として赴任。しかしその内面には深刻な性的異常が潜んでいた。複数の学校で生徒に対する性的な問題行為が発覚し、そのたびに「自主退職」という形で学校を転々とした。ソ連時代の閉鎖的な官僚体制の中で、問題は組織的にもみ消され、チカチーロは教壇に立ち続けることができた。

1981年、ついに教職を追われたチカチーロは、ロストフの工業企業「ロストフネルド」に資材調達係として就職。この職務は各地の工場や駅への出張が頻繁にあり、後の犯行を地理的に拡大させる致命的な条件を整えることになる。

結婚と家庭

1963年、チカチーロは妹の友人フェオドシヤ・オドナチェヴァと結婚した。1965年に長女リュドミラ、1969年に長男ユーリが誕生。外見上は「真面目な教師」「おとなしい夫」として振る舞っていたが、夫婦の性生活は当初からほぼ成立しておらず、1980年代初頭にはチカチーロ自身が妻に「自分はインポテンツだ」と告白している。しかしフェオドシヤは離婚しなかった。後に彼女は「夫が殺人犯だとはまったく知らなかった」と証言している。


第3章:最初の殺人――1978年12月22日

エレナ・ザコトノワ(9歳)

1978年、チカチーロ一家はシャフトゥイ市に転居した。同年12月22日、チカチーロは9歳の少女エレナ・ザコトノワに声をかけ、事前に購入していた古い小屋に連れ込んだ。チカチーロは少女を強姦しようとしたが勃起できず、代わりにナイフで少女の腹部を3回刺した。刺す行為そのものに性的興奮を覚えたのはこの時が初めてであり、以後の犯行パターンの原型が形成された。少女は絞殺され、遺体はグルシェフカ川に投げ込まれた。

この事件では、近隣に住む25歳のアレクサンドル・クラフチェンコが容疑者として逮捕され、拷問を受けて自白を強要された。クラフチェンコは1983年に銃殺刑に処された。チカチーロの最初の犠牲者の代わりに、無実の人間が命を奪われたのである。


第4章:殺戮の加速――1981〜1984年

3年の空白と再犯(1981年)

最初の殺人から約3年間、チカチーロは犯行を控えていた。しかし1981年9月3日、ロストフ市内で17歳のラリサ・トカチェンコに声をかけ、人気のない場所に誘い出した。チカチーロはラリサを絞殺し、歯で乳首を噛みちぎり、棒で遺体を殴打して損壊した。これが彼の「性的サディズム」が本格的に開花した事件となった。

1982年――7人の犠牲者

1982年、チカチーロの犯行は急激に加速した。この年だけで7人を殺害している。

6月12日、13歳のリュボフ・ビリュークがシャフトゥイ近郊の森林帯で殺害された。遺体には頭部、首、胸、骨盤に22か所の刺し傷があり、眼窩にもナイフによる損傷が確認された。チカチーロが被害者の目を損傷する行為は、以後の犯行でも繰り返される特徴的なパターンとなった。「死者の目に殺人犯の姿が映る」という迷信を信じていたとされる。

12月11日には10歳のオリガ・スタルマチョーノクが殺害された。遺体には50か所以上の刺し傷があり、胸部が切り裂かれ、子宮が摘出されていた。

1983年――7人の犠牲者

1983年も犯行は止まらなかった。

6月頃、15歳のラウラ・サルキシヤンが鉄道駅近くで殺害された。10月27日には19歳の売春婦ヴェラ・シェフクンが殺害され、腹部が切り裂かれて内臓が露出した状態で発見された。12月27日には14歳のセルゲイ・マルコフが殺害された。遺体には70か所以上の刺し傷が確認され、性器が切除され、腹部が切り裂かれていた。

1984年――狂気のピーク、年間15人殺害

1984年はチカチーロの犯行が最も激化した年であり、1年間で15人が殺害された。

1月9日、ロストフのアヴィアトロフ公園で17歳のナターリヤ・シャロピニナが殺害された。2月21日には同じ公園で44歳のマルタ・リャベンコが犠牲になった。

3月24日、ノヴォシャフチンスクで10歳のドミトリー・プタシニコフが切手売り場から連れ出されて殺害された。遺体の衣服から精液と唾液が検出された。

5月25日、チカチーロは32歳のタチアナ・ペトロシャンとその10歳の娘スヴェトラーナ・ペトロシャンを森の中で殺害した。母娘を同時に殺害するという衝撃的な事件だった。

7月10日、13歳の少年ドミトリー・イラリオノフが殺害された。7月19日には19歳のアンナ・レメシェワが犠牲になった。

8月2日、16歳のナターリヤ・ゴロソフスカヤがアヴィアトロフ公園で殺害された。

8月7日、17歳のリュドミラ・アレクセーエワが殺害された。遺体には39か所の切り傷があり、腹部が切り裂かれ、上唇が切り取られて口の中に入れられていた。

8月中旬、チカチーロは出張先のタシケントでも犯行を行い、10歳のアクマラル・セイダリエワを殺害した。同じ8月、11歳のアレクサンドル・チェペルがドン川付近で殺害された。遺体は絞殺後に去勢され、両眼がえぐり出されていた。

9月6日、24歳の図書館司書イリーナ・ルチンスカヤがアヴィアトロフ公園で殺害された。

1984年の拘束と釈放

1984年9月、ロストフ駅で子供に声をかけているチカチーロが警察に拘束された。かばんの中からはナイフ、ワセリン、ロープが見つかった。しかし当時の血液型鑑定では、チカチーロの血液型(A型)と現場に残された精液の血液型(AB型)が一致しなかった。これはチカチーロが「非分泌型」という、血液型物質が体液に分泌されない極めて稀な体質だったためである。この鑑定ミスにより、チカチーロは窃盗の軽微な罪のみで処理され、釈放された。この判断が、その後6年間にわたるさらなる殺戮を許すことになる。


第5章:捜査と犯行の継続――1985〜1989年

オペレーション・レソポロサ(森林帯作戦)

1985年、ソ連内務省はロストフ州の連続殺人事件を一本化し、大規模捜査「オペレーション・レソポロサ」を発動した。名称は、犯人が鉄道沿線の森林帯(レソポロサ)に被害者を誘い込んで殺害する手口に由来する。捜査はソ連共産党中央委員会の管理下に置かれるほどの最重要案件となった。

捜査の中心人物はロストフ州内務局副局長ヴィクトル・ブラーコフであった。彼は50万人以上の容疑者を調査する史上最大規模の捜査を指揮したが、チカチーロは1984年の拘束時の血液型鑑定で「シロ」と判定されていたため、捜査線上から外れたままだった。

殺戮は止まらず

チカチーロはロストフ州での捜査網を避け、出張先の各地で犯行を続けた。

1985年8月1日、18歳のナターリヤ・ポフリストワがシャフトゥイで殺害された。首と胸に38か所の刺し傷があり、絞殺されていた。8月27日にはイリーナ・グリャーエワがシャフトゥイで殺害された。

1986年7月23日、33歳のリュボフ・ゴロヴァハが殺害された。20か所以上の刺し傷があったが、遺体の損壊は比較的少なかった。8月18日には18歳の裁判所書記イリーナ・ポゴレロワが殺害され、乳房が切除され、両眼がえぐり出された状態で埋められていた。

1987年、チカチーロはロストフ州を離れて犯行を行った。5月16日、スヴェルドロフスク州レヴダで12歳のオレグ・マカレンコフを駅から誘い出して殺害。7月にはウクライナのザポリージャで12歳のイワン・ビロヴェツキーを殺害。9月15日にはレニングラード近郊で16歳の職業訓練生ユーリ・テレショーノクを殺害した。

1988年4月、クラスヌイ・スーリンで身元不明の女性が殺害された。鼻が切断され、コンクリート片で頭部を殴打されていた。5月にはウクライナのイロヴァイスクで9歳のアレクセイ・ヴォロンコが殺害された。7月14日、15歳のエフゲニー・ムラートフが殺害された。去勢され、30か所以上の刺し傷があり、遺体は翌1989年4月まで発見されなかった。

1989年2月28日、16歳のタチアナ・リジョワが殺害された。チカチーロは自身の娘のアパートで犯行に及び、遺体をバラバラに解体して下水管に遺棄した。


第6章:最後の年――1990年、8人の犠牲者

1990年、チカチーロの犯行はふたたび激化した。

1月14日、11歳のアンドレイ・クラフチェンコ(1978年の最初の事件で無実の罪を着せられた男とは同姓同名の別人)が劇場から連れ出され、全身を滅多刺しにされ、去勢された。

3月7日、10歳のヤロスラフ・マカロフが駅から誘い出され、腹部を切り裂かれた状態で植物園で発見された。

4月4日、31歳のリュボフ・ズーエワが列車から降りたところを誘われ殺害された。遺体は8月24日まで発見されなかった。

7月28日、13歳のヴィクトル・ペトロフが鉄道駅から連れ出され、植物園で殺害された。

8月14日、11歳のイワン・フォーミンがノヴォチェルカッスクの川辺の葦の茂みで殺害された。

10月17日、16歳のヴァディム・グロモフが殺害された。遺体は絞殺され、27か所の刺し傷があり、去勢され、舌の先端が切断され、眼球が刺し貫かれていた。

10月30日、16歳のヴィクトル・ティシチェンコが列車から誘い出され、40か所の刺し傷を負って殺害された。

11月6日、22歳のスヴェトラーナ・コロスティクが殺害された。これがチカチーロの最後の犠牲者となった。犯行後、森から顔に血をつけた状態で出てきたチカチーロを目撃した警官がいたが、この時点では釈放された。


第7章:逮捕――1990年11月20日

11月6日のコロスティク殺害後、チカチーロが森から出てくる姿を目撃した警官の報告が捜査本部に届いた。ブラーコフの捜査チームはチカチーロへの監視を強化し、1990年11月20日、ノヴォチェルカッスクの路上でチカチーロを逮捕した。

逮捕当初、チカチーロは犯行を否認した。しかし11月28日、精神科医アレクサンドル・ブハノフスキーとの長時間の面談により、チカチーロは心理的に崩壊し、堰を切ったように自供を始めた。11月30日から12月5日にかけて、チカチーロは56件の殺人を詳細に告白した。捜査側が把握していなかった20件の殺人も含まれていた。


第8章:裁判――鉄の檻の中の怪物

世紀の裁判

1992年4月14日、ロストフ・ナ・ドヌーの裁判所でチカチーロの裁判が開廷した。被害者遺族の報復を防ぐため、チカチーロは法廷内に特設された鉄の檻に入れられた。刑事記録は220巻に及んだ。

チカチーロは法廷で複数の戦術を駆使した。まず「自白は精神的に動揺した状態で行ったもので無効だ」と主張。それが通らないとわかると、今度は精神異常を装い、法廷で奇声を上げたり、ズボンを脱いで性器を振り回したり、「自分は妊娠している」と叫ぶなどの奇行を繰り返した。

しかしチカチーロはセルブスキー国立精神医学研究所を含む3回の精神鑑定で、いずれも「完全な責任能力あり」と判定された。

判決

1992年10月15日、裁判所はチカチーロに対して52件の殺人について有罪判決を言い渡し、死刑(銃殺刑)を宣告した。当初56件を自供し、53件で起訴されたが、証拠不十分で1件は無罪となった。判決が読み上げられると、法廷には拍手が湧き起こった。


第9章:処刑――1994年2月14日

チカチーロは判決後、恩赦を求める嘆願書をロシア大統領エリツィンに送ったが却下された。

1994年2月14日、チカチーロはUAZ車でノヴォチェルカッスクの刑務所の処刑場に移送され、後頭部への一発の銃弾で処刑された。57歳だった。遺体はノヴォチェルカッスク刑務所の墓地に無名の墓として埋葬された。


第10章:チカチーロが残した「遺産」

冤罪の犠牲者

チカチーロ事件は、ソ連の捜査機関の深刻な構造的欠陥を露呈した。1978年の最初の殺人では無実のアレクサンドル・クラフチェンコが逮捕され、拷問による自白強要の末に1983年に銃殺刑に処された。また捜査期間中、少なくとも5人の無関係な男性が容疑者として拘束され、うち1人は取り調べ中に暴行を受けて死亡したとされる。

血液型鑑定の限界

1984年にチカチーロが一度拘束されながら釈放された最大の原因は、非分泌型という特異体質による血液型鑑定の不一致だった。この事件は、血液型鑑定の限界とDNA鑑定技術の必要性を世界に知らしめるきっかけとなった。

ソ連崩壊とタブーの崩壊

ソ連時代、当局は「連続殺人は資本主義社会の病理であり、社会主義国家には存在しない」という立場を取っていた。チカチーロ事件の発覚は、この虚構を完全に打ち砕いた。事件は1990年のグラスノスチ(情報公開)政策と時期が重なり、ソ連・ロシアの犯罪報道のあり方を根本から変えた。


被害者一覧

以下は、裁判で有罪が確定した52件の被害者を中心とした一覧である(一部、自供のみで確定に至らなかったケースも含む)。

No.氏名年齢殺害日殺害方法の概要
1エレナ・ザコトノワ91978年12月22日腹部を3回刺す。絞殺。遺体をグルシェフカ川に投棄
2ラリサ・トカチェンコ171981年9月3日絞殺。歯で乳首を噛みちぎる。棒で遺体を損壊
3リュボフ・ビリューク131982年6月12日頭部・首・胸・骨盤に22か所の刺し傷。眼窩にナイフ損傷
4オリガ・スタルマチョーノク101982年12月11日50か所以上の刺し傷。胸部切り裂き。子宮摘出
5ラウラ・サルキシヤン151983年6月頃鉄道駅付近で殺害。詳細不明
6ヴェラ・シェフクン191983年10月27日腹部切り裂き。内臓露出
7セルゲイ・マルコフ141983年12月27日70か所以上の刺し傷。性器切除。腹部切り裂き
8ナターリヤ・シャロピニナ171984年1月9日アヴィアトロフ公園で殺害
9マルタ・リャベンコ441984年2月21日アヴィアトロフ公園で殺害
10ドミトリー・プタシニコフ101984年3月24日切手売り場から誘拐。殺害。衣服から精液・唾液検出
11タチアナ・ペトロシャン321984年5月25日娘と共に森の中で殺害
12スヴェトラーナ・ペトロシャン101984年5月25日母親と共に殺害
13ドミトリー・イラリオノフ131984年7月10日殺害。詳細不明
14アンナ・レメシェワ191984年7月19日殺害。詳細不明
15ナターリヤ・ゴロソフスカヤ161984年8月2日アヴィアトロフ公園で殺害
16リュドミラ・アレクセーエワ171984年8月7日39か所の切り傷。腹部切り裂き。上唇を切り取り口内に挿入
17アクマラル・セイダリエワ101984年8月中旬タシケント出張中に殺害
18アレクサンドル・チェペル111984年8月絞殺。去勢。両眼をえぐり出す
19イリーナ・ルチンスカヤ241984年9月6日アヴィアトロフ公園で殺害
20ナターリヤ・ポフリストワ181985年8月1日首と胸に38か所の刺し傷。絞殺
21イリーナ・グリャーエワ不明1985年8月27日シャフトゥイで殺害
22リュボフ・ゴロヴァハ331986年7月23日20か所以上の刺し傷
23イリーナ・ポゴレロワ181986年8月18日乳房切除。両眼をえぐり出す。遺体を埋める
24オレグ・マカレンコフ121987年5月16日レヴダの駅から誘拐。殺害。遺体は1991年まで未発見
25イワン・ビロヴェツキー121987年7月ウクライナ・ザポリージャで殺害
26ユーリ・テレショーノク161987年9月15日レニングラード近郊で殺害
27身元不明の女性不明1988年4月鼻を切断。コンクリート片で頭部殴打
28アレクセイ・ヴォロンコ91988年5月ウクライナ・イロヴァイスクで殺害
29エフゲニー・ムラートフ151988年7月14日去勢。30か所以上の刺し傷。遺体は翌年4月まで未発見
30タチアナ・リジョワ161989年2月28日アパート内で殺害。遺体をバラバラに解体し下水管に遺棄
31アンドレイ・クラフチェンコ111990年1月14日劇場から誘拐。全身を刺す。去勢
32ヤロスラフ・マカロフ101990年3月7日駅から誘拐。腹部切り裂き。植物園で発見
33リュボフ・ズーエワ311990年4月4日列車から誘い出し殺害。遺体は8月24日まで未発見
34ヴィクトル・ペトロフ131990年7月28日鉄道駅から誘拐。植物園で殺害
35イワン・フォーミン111990年8月14日ノヴォチェルカッスクの川辺で殺害
36ヴァディム・グロモフ161990年10月17日絞殺。27か所の刺し傷。去勢。舌先端を切断。眼球を刺し貫く
37ヴィクトル・ティシチェンコ161990年10月30日列車から誘い出す。40か所の刺し傷
38スヴェトラーナ・コロスティク221990年11月6日最後の犠牲者。ドンレスホーズ駅付近で殺害

※上記は主要な被害者の一覧であり、裁判で確定した52件のうち詳細が判明しているものを記載。1982〜1983年の一部の被害者は身元が特定されておらず、記載を省略している。


ソース一覧

週刊あおいみゆ

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